立川美術学院について

半世紀年以上の伝統と実績が強・合格力を確立させ、東京芸大・武蔵野美術大学・多摩美術大学その他美大美術系大学へ毎年圧倒的な 合格率と合格数を挙げ続けています。 指導は作家集団による指導歴20年以上のベテランに加え、5年以上の中堅と大学院の若手講師でチームを編成して、責任クラス制少人数を徹底しています。感動させる授業、自由な表現、厳しい鍛錬を指導の根幹として、生徒のみなさんに「タチビって面白い」と言わしめる授業を展開しています。予備校の枠を超えた講師陣の指導は、制作に打ち込む強い姿勢が育まれ、大学入学後も「タチビ生はたくましい」と評価される要因となっています。今、村上隆、中村政人、中山ダイスケ、小沢剛、中村哲也、笠原出、菊地敦己、池田光宏、泉太郎、小沢敦志、和田昌宏、小河朋司、松井えり菜など、アート・クリエイティブ界を牽引しているアーティストに立美卒業生、講師出身者が多いことからも実証されています。

立川美術学院の沿革

1969年。
当時は立川現代美術研究所という名称でミロ画材の二又社長が経営している一般の絵画教室であった。一方学院長都守健一は、広島から上京、武蔵美生となり、1年生の時からムサビ内に美育研究会を組織し、美術教育の実践の場として児童造形教室を開いていた。
この組織は後輩に引き継がれ、現在は造形教育研究会となっている。各地の団地に出張するものであったが、卒業する頃には150名を有する生徒数になった。その発表展を卒業の3月に立川高島屋の協賛を得て大がかりに開催した。その会場で二又氏から研究所を一任するので、引き継いでみないかと誘われた。この年4月に今まで造形教育を一緒にやってきた塙眞由美と受験科を設置した学院長は、現在地元昭島に設計事務所を開いて活躍する斉藤氏など4名の昼間部生と、夏から加わった高3年生13名の計17名の生徒のうち、13名をムサビに合格させた。予備校としての第一歩である。
アトリエは2階建ての古い民家の壁を取り壊して広くしただけで、畳を取り払って板張りにしてはあったが、柱は、所々に突き出ているわずか14坪の狭さだった。夜は社会人の趣味クラスの人たちと一緒、油絵科も建築科もデザイン科も、同じモチーフ。全てデッサン強化のため、彫塑をたびたび取り入れたカリキュラムですすめられた。平面構成は冬期講習会ではじめて来てもらったムサビの視デ3年生の松井講師。大晦日も正月も休みなしで特訓した。そして正月明けには、もうすぐ入試だというのに、なんとB全大の平面構成をやらせたのだ。狭いアトリエ、今までは、デッサンばかり貼ってあった壁が、B全の平面が展示され、雰囲気は一気にデザイン科ムード。その時、北斎の富士を小さくモザイクで色面分割した、萩沢氏、現在マーチン萩沢の名でイラストレーターとして活躍中。当時のアトリエはクーラーは、―あると思われたが―、それは彼が克明に描写したものであった。おまけに西陽が射し込むので、ランニングの後が背にくっきりと日焼けした。午前中から描いていた石膏像は夕方にはとんでもない変わり様だった。でも生徒はおかげで、光を超えたとらえ方ができるようになったといい、たくましく育った。翌年の夏、油絵科では、100号の制作を課するなどおよそ入試を無視した指導を展開した。
このエピソードから、すでに創立当初から、デッサン力を鍛えるタチビの指導の根幹がしっかりと芽吹いていたと言えるだろう。
 
立川美術学院 学院長都守健一 武蔵野美術大学油絵学科卒